プレセッション講演会【弐~南・朱雀~】 全2回
日程:令和2年(2020年)11月7日
登壇:鳥羽重宏(城南宮宮司)、友吉鶴心
日程:令和2年(2020年)12月5日
登壇:友吉鶴心
城南宮と琵琶
令和2年(2020年)11月7日
『中殿御会図』と琵琶

城南宮は、平安遷都の際に、都の南に鎮まり給うて、都を末永くお守りくださるように、という願いを込めてお祀りされたお宮です。そして、平安時代の末に白河上皇様が当地に鳥羽離宮を築いて院政の拠点とされます。
発掘調査をしますと、この会場の建物のあたりは池の汀だったと判りました。ですから、上皇様は、離宮の御殿から船に乗って来られると、このあたりで船を下りて城南宮に参拝になり、祭礼の時には神輿行列や流鏑馬、競馬をお楽しみになったことと思います。
離宮での雅びやかな宴では、琵琶が演奏されることもありました。当時を偲ぶよすがとして『中殿御会図』という掛け軸を、初公開します。この場面自体は宮中の清涼殿で行われた歌会、管絃の会を描いたもので、順徳天皇様が弾いておられる琵琶を「絃上」といい、三種の神器に次ぐ位、皇室で大事にされていた名器です。

ご存じかも知れませんが、「絃上」という、もう一つの琵琶があります。その楽器も行方は全くわからないのですが、大変良い音がしたから、幻の楽器となり、どんどん色々な物語が生まれたみたいです。

明治天皇と薩摩琵琶

承久の変で幕府の大軍に敗れた後鳥羽上皇様は、ここ鳥羽離宮に一時留め置かれ、出家をして隠岐に島流しにされてしまわれます。その挙兵の際、主なる武将に赤地錦の御旗を授けられたのが「錦の御旗」の始まりと言われます。
それから六四七年後、再び鳥羽の地に「錦の御旗」が翻って鳥羽伏見の戦いの決着がつき、武士の世が終わり、新しい明治の御代が始まりました。その折、薩摩藩が陣を敷いて大砲を据え、都に入ろうとする旧幕府軍を迎え撃った場所が、先ほど皆さんが歩かれた城南宮の参道になります。
それから二か月余り後、大坂行幸の行き帰りに、明治天皇様は拝殿に上がって昼食をお召し上がりになりました。

明治天皇様が薩摩琵琶という四文字熟語をお作りになったと言っても過言ではありません。明治様が東京の宮城に入られたときに宴席が開かれました。その時に鹿児島で弾かれている琵琶を演奏したという記録があります。すると明治様が「それは鹿児島、薩摩の琵琶で薩摩琵琶だな」と仰ったということからずっと薩摩琵琶と言われています。
一時期、西幸吉という人物を明治宮殿に住まわせて、毎晩のように演奏をお聞きになって御寝所に入られた。西幸吉をお召しにならない時は、毎夜必ず蓄音機で琵琶をお聞きになって、ご自分も歌われたという。当時の女官さんたちの日記にもその旨が書いてございました。
国歌君が代と薩摩琵琶

薩摩の武将たちは鳥羽伏見の戦いに勝って、お礼参りをして帰っていったのですが、その隊長の一人を野津鎮雄といいます。
後に、イギリスの軍楽隊の楽長から「外国の人を迎える時など、重要な儀礼の際に演奏する音楽が貴国にあるか」と大山巌が尋ねられた時、そばに居た野津鎮雄が「薩摩琵琶の蓬莱山の一節『君が代』を」と提案して、国歌『君が代』の歌詞が選定されたということです。

野津さんとか大山さんは琵琶をやっていて、だからここへ来た鹿児島の一団は必ずや琵琶を弾いていたような気がするんですよね。
実は、鳥羽伏見の戦いで鼓笛隊は鹿児島の人々がなさったらしいですが、それを薩摩バンドって言います。なぜ薩摩の方々が出来たかというと、小さい頃から琵琶を弾いて、天吹(てんぷく)を吹いていたからです。日本で初めてのバンドは薩摩バンド。ですから、城南宮さんでも絶対演奏してたんじゃないかなあ。是非次は蓬莱山を演奏させて頂ければと思います。素敵な御縁、本当にありがとうございます。

